焼失後すぐに再建に取りかかり、天守台の石垣は加賀藩前田家の寄進によって造られました。その台座がいまも残されています。しかし天守の再建は当時の将軍後見役で、家光の異母弟、会津藩主の保科正之が「被災した人たちの救済と江戸の街の再建が先であろう。いまは、天守再建の時にあらず。」と宣言して、築城工事が見送られました。保科正之の判断の中には、すでに戦国の世は遠く、もはや天守によって幕府が天下を威嚇する時代ではないとの考えがあったと言われています。