◇大多喜城編の第2弾‐その2をお送りします。
今回も千葉第6支部長の平出さんと一緒で、千葉第一支部長の江澤さんと、そのご友人で「いすみ市商工会会長」の出口さんにご案内頂きました。
◇その1では大多喜城のエポックとして1609年(慶長14年)の前フィリピン総督以下373人の遭難事件を中心に見聞しました。今回はその2として、御宿町の「月の砂漠記念館」と「月の砂漠記念像」を紹介し、その後、勝浦市に移動して見聞した勝浦城址と、家康の側室「お万の方」に関する史跡についてご報告すると言うプランでした。ところがお城巡りの企画委員の方々と相談しましたら、だんだんお城(本当は天守)の見聞から遠ざかって行くので、もっとお城主体に!と言うご意見を賜りました。
◇そこで今回は、兎に角、先ず「勝浦城」を紹介し、次に勝浦城ゆかりの「お万の方」(家康の側室)を紹介します。最後に御宿町で有名な童謡「月の砂漠」に触れておきます。
《勝浦城》
勝浦城は勝浦湾の東、八幡岬の突端に位置しております。3方向絶壁に囲まれており、難攻・難落な地形ですが、攻め込まれた場合逃げ場がありません。背水の陣ではありませんが、将に「背崖の城」、必勝or必死の城ではなかろうかと思いました。
◇このお城、築城時期は不明ですが、里見氏の配下の正木氏の所領であった様です。大多喜城は正木家宗主時茂が抑えており、勝浦城を分家の時忠が抑えたのが、天分11年(1542年)頃と言われているそうです。
◇その後、正木氏自身が、里見氏に付いたり北条氏に付いたりしていましたが、天正4年1576年に正木時忠が没すると、小田原に人質として出されていた時茂の弟、正木頼忠が帰国して城主になったと言う事です。この頼忠が「お万の方」の父親です。(のちほど紹介)
◇勝浦城自体、現存する城址としては、「何もない」のひとこと。地形的特徴以外は表現のしようがありません。現在の遊歩道と公園以外は藪に覆われていて、積極的に堀切などの遺構を発掘しようとした形跡も見当たりません。八幡岬の最先端部に小さな平地(八幡岬公園)があり、主郭と言われております。そこにお万の方(養珠院)の立像があります。
◇八幡神社参道入口に「勝浦城址」の石柱がありますが、別面は「養珠夫人誕生の地」となっています。八幡社のお社はこの岬で一番の高所の様ですが、天守の様な城郭遺構は不明です。
《お万の方=養珠院》
「お万の方」をネットで調べますと、6人のお万の方が表示されます。夫人の名称としてはポピュラーであることが伺い知れます。ここでのお万の方は家康の側室、後の養珠院です。
◇お万の方は、先述の正木頼忠を父として(天正5年)1577年に勝浦城で生まれました。1580年の生まれと言う説もある様です。母は北条氏政の養女「智の方」です。頼忠が人質として小田原城にあった折、大切に扱われ、氏政に認められていた証です。北条一門になったと言う訳ですね。
◇時に天正18年、秀吉の北条攻めに呼応して、正木家宗主憲時は大多喜城にあって反北条の旗幟を鮮明にし、北条一族となっている勝浦城の叔父頼忠を攻め立てました。(この事で、大多喜に対して好感を持てない勝浦住民の方がおられるようです)陸路を完全にふさがれた頼忠一家はお万の方とも共、決然として50mもの断崖を下って、海岸から船で館山方面に脱出しました。これが「お万布晒し」の伝説となりました。(実話ではない様です)お万の方は母と共に祖父北条氏隆(小田原久野城)に引き取られました。
◇その後、お万の方は母の再婚(蔭山氏広)などがあり、蔭山家(河津城)、や韮山城主(江川英長)などと親交を深め、その関係で熱心な日蓮宗の信徒となって行きます。
◇一方、家康は秀吉との関係もあり、京都と江戸の往復と言う状況に陥っております。その折には、大体沼津で泊まると言う旅程だったそうです。江川家、蔭山家の関係で、お万の方もこの家康の「お・も・て・な・し」に一役買うことになり、ついに53才家康の側室となりました。時に1596年お万の方≒19才(16才と言う説もあり)。
◇家康も頑張りましたが、お万の方も相当頑張りました。
1602年頼宣が生まれました。家康の10男、後の紀州藩主です。そして1603年には弟の頼房、家康の11男が生まれます。後の水戸藩主であり、有名な水戸黄門さんの父上に当たります。つまりお万の方は黄門さんのおばあちゃんに当たると言う事です。
◇ここまでのストーリーは「お万の方」が逆境をものともせず、家康の側室の地位を確固たるものにして、充実した人生をおくると言う事ですが、この後更なる逆境が用意されています。「お万の方」の次に、家康の側室となった「お勝の方」が登場します。通常「勝の局」と称され、家康没後「英勝院」を名乗ります。鎌倉の英勝寺に繋がります。
「お勝」は太田道灌のひ孫の太田康資の娘で、安房小湊の誕生寺の近くで生まれました。勝浦の「お万」とは若い頃から見知っていたと思われます。
◇「勝の局」は、美貌の比較は良く判りませんが、大奥の官僚としての能力は、お万の方を遥かに凌ぐものであった様です。更に家康(64才)最後の子として「市姫」を産むに及んで、家康の寵愛も一身に受けたと言っても過言はないでしょう。
◇ところが、この「市姫」は3才で夭逝してしまいます。家康も大層哀れんだと思いますが、何と「お万」の次男「頼房」の養母として、「お勝」に世話を任せてしまいます。
◇以下は太田会長から伺ったお話
頼房が水戸藩主に封じられ赴任する時、頼房は弱冠8才でしたので、「お勝」(太田於勝)は、自分の甥(即ち太田道灌のひ孫の孫)=太田正重を水戸藩家老として同行させます。正重は当NPO会長、太田資暁さんのルーツに当たるそうです。色々ご縁のある話ですね。
◇最後になりますが、せっかく御宿を訪問しましたので、御宿町自慢の「月の砂漠」の話。
童謡「月の砂漠」を作詞した「加藤まさを」は竹下夢二などと同年代で活躍した抒情画家ですが、詩人でもあります。名曲「月の砂漠」は大正12年に発表されましたが、御宿海岸がその舞台であると言う事です。昭和44年に詞碑と記念像が建てられました。その後「加藤まさを」は、御宿に移り住んで、余生をおくったと言う事です。
これにて3部に亘ってお送りした大喜多城とその周辺のお話は終了します。ご一瞥有難うございました。
以上
理事 田中鐵二