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なぜ今、江戸城天守再建なのか

私たちは1657年の明暦の大火で失われた
「江戸城寛永度天守」の再建を目指しています。

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明暦の大火と保科正之の英断

明暦の大火により、江戸の街の大半が焼き尽くされ、江戸人口50万人のうち10万人以上の生命が奪われました。この未曾有の大災害に陣頭指揮で対処したのが、3代将軍家光の異母弟で、4代将軍家綱の後見役となった会津藩主保科正之でした。保科正之は、被災者の早急な救済と民生安定、長期的展望に基づいた江戸市街の災害復興を最優先の課題と考えました。江戸城天守は、江戸幕府の権威と権力の象徴と考えられていましたが、今はその再建のために、国の財産を費やす時節ではないと判断し、先に延ばすことを決定しました。

この保科正之の英断が、それ以降200年にわたる江戸期の社会の平和と安定の礎(いしずえ)となり、元禄、文化・文政の江戸文化が花開くこととなりました。

江戸城再建の時節到来

時は移ろい、世は替わり、江戸城天守は再建されないまま、360年が経過しました。私たちは保科正之が「今は、その時にあらず」と判断した江戸城天守の再建の時節が今まさに到来したと考えています。

19世紀半ばの明治維新を契機に、工業立国を目指した日本は、第2次大戦の敗戦という苦難も乗り越え、20世紀の後半までに世界の工場として目覚ましい躍進を遂げました。

20世紀末から21世紀に入りますと、経済の国際化と途上国の経済発展が加速する中で、日本の多くの企業は積極的な海外投資により、生産拠点を海外に移すようになり、世界の工場の座を中国などの途上国に明け渡すことになりました。その結果、長らく黒字を続けてきた日本の貿易収支は赤字に転じましたが、海外投資収益の受取が増加したことから、幸いにも日本の国際収支は黒字を維持しています。

観光立国は21世紀の国家的課題

2006年国は、「観光立国推進基本法」を制定しました。人口減少・少子高齢化社会の閉塞状況を打ち破り、急速に経済成長するアジアの観光需要を取り込んで元気な日本を回復するため、観光立国の実現を21世紀我が国経済社会の発展のための不可欠の国家的課題としたのです。

江戸城を観光立国のシンボルタワーに

観光立国の実現のためには、歴史と伝統にはぐくまれた日本の魅力的な文化と技術についての情報を広く海外に発信していくことが求められています。

江戸城寛永度天守は、姫路城の面積で2倍、体積で3倍の規模で、日本で最も壮大で美しい木造建築の最高傑作であったといわれています。

のみならず、姫路城と同じ木組みの柔構造による耐震建築技術は、法隆寺5重の塔の心柱による耐震建築技術と並んで、地震国日本が世界に誇る耐震建築技術の基礎の一端を担ったものとして今日的な意義を持っています。

その国を代表する世界の大都市には、ロンドンのバッキンガム宮殿、パリの凱旋門、ベルサイユ宮殿、北京の紫禁城、ニューヨークの自由の女神などの歴史と伝統と文化の象徴というべきモニュメントがあります。しかし、世界5大都市といわれる、東京には、この国の歴史と伝統、文化を代表する記念碑と言われるものがありません。

観光立国日本の首都東京に、江戸城天守を再建することは、歴史と伝統を代表するとともに、クールジャパンで世界を魅了する新たな日本の文化と技術を発信するためのシンボルタワーを建設することになるものと考えます。

歴史的建造物の再建は、世界の潮流

2002年ドイツ連邦議会は、第2次大戦で破壊されたベルリン王宮を再建することを決議しました。首都の中心に歴史的建造物を記録に忠実に再現し、未来志向の文化施設とする考えにドイツ国民のコンセンサスが成立したのです。

ポーランドの首都ワルシャワの市民は、第2次大戦で徹底的に破壊された旧ワルシャワ市街の街並みを粘り強い努力で昔のままに再現し、ユネスコはそれを世界遺産と認定しました。

このように歴史的な建造物を再建し、古い文化に新しい息吹を吹き込もうとする動きは、ヨーロッパのみならず、日本でも、いや世界各国でも、澎湃として湧き起こっています。江戸城天守の再建は、このような国際的にも普遍性のあるプロジェクトとして、世界が注目することになると考えます。

一人でも多くの方に、私たちの運動にご参加いただきますよう、お願いいたします。