
H21.9.24 本物から多くを学んだ!(第8回江戸城再建セミナー報告「木造復元大洲城天守見学と龍馬脱藩の道探訪」)


本物から多くを学んだ!
第8回江戸城再建セミナー報告「木造復元大洲城天守見学と龍馬脱藩の道探訪」
第8回セミナー「木造復元大洲城天守見学と龍馬脱藩の道探訪」は、2009年9月24日から25日の二日間、初めて東京を離れ、
二日間のセミナー終了後、参加者一同、復元された本物の木造天守、発見された本物の龍馬脱藩の道に触れ、その現場で、その復元と発見に大変なご苦労をされた方々のお話しを直接聞くことが出来て、感動し、且つ今後の江戸城再建運動を進める上で大変参考になったとの感想を述べられていました。


このセミナーは2年越しのプロジェクトで、この間、セミナー開催に向け、大洲市役所、並びに地元の方々は親身になってご協力、ご助力くださいました。会と地元との調整には、会の正会員で大洲市の出身でもある田苗勉さんが精力的に行ってくれました。また、旅行企画・実施は近畿日本ツーリスト(株)に依頼いたしました。
大洲城は伊予の小京都・
一方、薩長同盟、大政奉還の立役者で日本回天に大きく貢献した坂本龍馬の脱藩の道は、あの司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」でも推測で簡単に触れられているだけです。それを、昭和61年、一枚の古文書との出会いが契機となって、当時、大洲市の一職員で、歴史、史跡発掘等には全くの素人である村上恒夫氏等が、その後、大変なご苦労と執念で発見されました。
今回のセミナー構成は以下の通りです。
①木造復元大洲城天守見学、
②大洲市での講演会:テーマ「大洲城天守復元の道のりに学ぶ」、
講師:
藏本和孝さま(大洲市役所建設農林部都市整備課主幹)、
井上 徹さま(大洲市教育委員会教育総務課課長補佐)、
菅野隆次さま(大洲市観光協会会長)、
河野達郎さま(株式会社おおず街なか再生館代表取締役専務)、
倉橋英太郎さま(当会アドヴァイザー、(株)倉橋英太郎建築設計事務所代表取締役)
③大洲城下町見学
④河辺町での講演会:テーマ「龍馬になれ」、
講師:村上恒夫さま(作家)
⑤龍馬脱藩の道探訪
⑥松山城見学
講演の概要は以下の通りで、詳細は後出の講演詳録をご覧ください。
第1日目の講演会

会場は大洲城天守の中で、天守内の木の美しさ、木組に秘められた匠の技とその美しさを体感しながら、約4時間、講演と質疑応答が行われました。今後の会の運動に参考になると思われる点は以下の通りです。
1.建築基準法適用除外への苦難の道
この適用除外を受ける道のりは並大抵のものではなく、この適用除外は、城郭建築と歴史、建築構造、それらの知識・経験に基づく建築設計、という分野で日本の権威と認めれている学者と建築家の先生方の支援、協力なしでは考えられない。市の担当者としては何度も挫けそうになったが、その度にこれらの先生方に励まされた。諦めない、ということが肝要、と今改めて思っている。
適用除外を受けるために課された条件は以下の通り
(1)先ず、復元しようとする大洲城天守が建築基準法第3条1項3号が規定する「保存建築物」であると認定されること
(2)その上で、同法第3条1項4号の適用除外を受けて、保存建築物であったものの原型を再現するためは、以下の事項につき公的な機関での証明を行うこと
1.史実に忠実な復元とすること
2.防災上の安全性について検証すること
3.構造上の安全性について検証すること
江戸城再建の場合、大洲城以上に第2項の条件をクリアするのが大きな課題かもしれない
2.大量の木材調達
今回の復元工事で使用した木材量はで450㎥、これだけの量の木材を、納得のいく質と価格両面で調達するのに大変苦労した。この点でも、先生方の助言で大変助けられた。
3.木造による江戸城再建は地球環境保護のシンボルになり得る
木材重量の半分は二酸化炭素(CO2)で、木材を使用し、その分新たに植林すれば使用木材重量の半分に相当するCO2が固定でき、地球温暖化防止に貢献する。大洲城復元の木材使用量は450立米、225トンで、この半分の113トンのCO2がお城に固定されたことになる。江戸城が木造で再建されれば、その木材量は莫大であり、江戸城再建目的の一つに、「地球環境を守るグリーン革命のシンボル」が加えられ得る。
4.事業を行政が主導するのでなく市民、事業者、そして自治体の三位一体で頑張っていこうとの姿勢で推進
5.募金に対する市民の理解と賛同を得るために、多くの時間と労力を要した
6.お城の歴史そのものを地域の方がどれだけ理解しているか、これが地域の人とお城との距離感を決める最大のポイントではないか
7.本物ならではの質感と空間があって初めて人は感動するのではないか
イタリアに世界遺産に登録されているフェラーラという町がある。そこは現在も、15世紀から16世紀にかけつくられた9km以上の市壁に囲まれて、初期ルネサンス様式の装飾が施された宮殿・邸宅が多い。そこには心身ともにうるおいとやすらぎを得られるような空間があるから、現在でも多くの人が訪れている。2007年の統計では、日本を訪れる外国人は830万人、あのイタリアは4370万人。東京はもとより、全国各地で日本の伝統・文化を活かした本物の空間作りが進めば、日本を訪れる外国の方々はもっと増えるのでは・・・。
第2日目の講演会

二日目の講演会は、小学校の校舎を改修した「ふるさとの宿」で行われました。作家の村上恒夫氏による講演テーマは「龍馬になれ」です。講演の前半では、坂本龍馬の生い立ちから最後までを、あたかもその場にいるが如く、立て板に水で生き生きと話されました。その後で、先生と先生の先輩のお二人がご苦労されて龍馬脱藩の道を発見した経緯を次のように語られました。
この発見のきっかけは、1枚の古文書でした。この古文書に出てくる土地を実地に調べていくうちに、この文書が、土佐脱藩藩士・沢村惣之丞が龍馬を実際に案内した脱藩ルートを記録していることが分かったのです。これは一大発見でした。
この間に集めた資料、写真は膨大なものでした。この新発見を世間に知らせるためにこれらの資料を学者に送って本を書いてもらおうかとも話しました。しかしながら、龍馬の道をじかに歩き、龍馬が脱藩した時に龍馬、惣之丞、那須俊平の三人が脱藩後の伊予路での第1夜を過したあの泉ケ峠を発見した時の足が震えるような感動を知る者が発表すべきだ、ということで意見が一致しました。私に書け、ということになりましたが、お金も、時間も、能力もない私は書けない。私は悩み、泉ケ峠に2日間居座りました。その時、「130数年前、坂本龍馬は今自分が立っているここを通って脱藩し、5年の間に日本の封建制をひっくり返した。龍馬にそれが出来た。たった400枚の原稿位お前に書けないわけがない、やってみい、おまえ龍馬になれ」という気になりました。それから私は変わりました。猛勉強もしました。テレビ見るのをやめましたら時間はたっぷりありました。2年間かけて400枚の原稿を書きました。出版されましたら、大反響でした。
龍馬脱藩の道が発見されたことで私の人生もこの河辺町も変わりました。河辺町には大勢の方が来られるようになりました。


<講演詳録>
第1日目 於 大洲城天守内
藏本和孝さま(
(復元天守の歴史)
今回復元した大洲城の築城時期は特定する資料が残されておらず、推測の域を出ませんが、慶長14年(1609年)頃ではないかとみている研究者もおり、このころ4層4階の天守を中心として本格的な近世城郭に整備されたのではないかと考えられています。明治に入り次第に城郭が取りのけられ、明治21年(1888)に天守も壊されましたが、天守台には2つの櫓(やぐら)が昭和32年に国の重要文化財に指定、保存されてきました。今回の事業は,4層4階の天守を復元し、現存するこの2つの櫓を平屋の多聞櫓で接続する工事です。
(復元天守事例と建築基準法)
平成3年に
平成6年10月に「大洲城天守閣再建検討委員会」が発足し、建築史学者・工学博士の(故)宮上茂隆氏から史実に基づいた木造による復元が可能であるとの報告から、市制施行50周年である平成16年の復元完成を目指し、事業がスタートしました。私たちが目指す復元天守は、軒高は16m、高さは19m(戦後の木造復元天守では最高)で4層4階建て(戦後初)を史実に忠実に伝統工法に基づき木造で復元し、完成後は天守4階まで入場観覧することができること、というものでした。
(建築基準法適用除外への苦難の道)
お城は、熊本城などの例に見られますように、国指定史跡の中で復元しますので、文化庁、文化財建造物保存技術協会などが設計に関与してこられます。このため、私たちのような城郭建築に素人である自治体担当者では話がなかなか進まず、城郭建築に詳しい民間の先生方に設計プロジェクトチームを作ってもらいました。これはおそらく初めての事例ではないでしょうか。
そこで、大洲市は建築基準法第3条(基準法適用の除外)と平成7年に完成した白石城の復元手法に倣い、法第38条(大臣認定取得)での復元可能性について愛媛県と協議を重ねてきました。協議の結果、大洲城の場合は法第3条の基準には適合しないとの県側の見解が示されたため、法第38条での復元を進めることになりました。従って、この時点では、史実通りではないが、階段は住宅用の緩いものする、スプリンクラーは付ける、窓を高くするなど、法にのっとって作り且つ運用することにしていました。
市民手作りの復元を目指すことから、復元工事費13億円の内5億円を市民の皆さんの寄付でまかない、使用する木材も出来る限り市内の山林保有者に寄附をお願いし、事業は順調に進んでいました。
しかし、復元手法の拠り所としていた法第38条(大臣認定取得)が、平成12年6月から建築基準法の改正(第38条削除)で適用できなくなりました。ここから大変な作業が始まりました。
先生方は当時の建設省と協議する中で、かつては法の枠内で復元できた白石城三階櫓は改正法の下では建築不可能であり、大洲城のような復元建物に対する新法は用意されていないことが判明しました。一方、このような歴史的建造物の復元は、大規模木造建物を作る技術の継承に不可欠であること、伝統文化としての工法である木造での復元に対する強い社会的要請があることなどが確認されました。
そこで、一度は結論が出された法第3条での復元について、再度建設省や愛媛県との協議に入りました。建設省は、地方の時代が叫ばれる中、愛媛県が判断されることに対し異論を唱えない、とのことで、愛媛県だけとの協議となりました。
県は当初、復元大洲城天守は法第3条1項3号が規定する「保存建築物」ではないとの見解で県との協議は長期にわたりました。この間、他の自治体での事例を収集したり、いろいろな分野の方々の支援を求めたりしました。途中、半分諦めて、法内でやるか、2階3階の床を張らずに木造2階建てにする
か、窓は大きくするか、階段をゆるやかにするか、とも思いましたが、反面、そういうものを作っても意味がないじゃないか、との思いもありました。このような時、先生方が、「藏本君、よそでもできん、できんと言われていたが、皆できているじゃないか、頑張りましょう」と励まされました。諦めないことが肝要なのですねー。
そして、平成12年9月、県は、大洲城跡が昭和28年に愛媛県の指定史跡(昭和28年史跡名勝天然記念物)に指定されていることから現状変更の規制及び保存のための措置が講じられている建築物、すなわち法第3条1項3号が規定する「保存建築物」と判断し、同法第3条1項4号を適用するとの最終決定を行いました。
保存建築物であったものの原型を再現するために、愛媛県より以下の事項を条件づけられました。
<3条適用に当たっての条件>
以下の事項につき公的な機関での証明を行うこと
1.史実に忠実な復元とすること
2.防災上の安全性について検証すること
3.構造上の安全性について検証すること
第1項は文化庁・県教育委員会の現状変更許可書、第2項と第3項は㈶日本建築センターでの検討報告書を県の建築審査会に提出、同意を得て、平成13年5月に法第3条1項4号の建築基準法適用除外申請書を提出し、平成13年6月、ようやく認定通知が届き、復元建築が可能となったのです。
(第2の問題は大量の木材調達)
基準法の問題に続く大変な作業が膨大な量の木材調達でした。先生方からは、木材の産地がこの梁は高知県、この梁は愛媛県といったようにばらばらだと構造上ばらつきが出るので、できるだけ1か所で大量に調達した方が安くつくし、構造上も安心できるとのご助言をいただき、乾燥期間として必要な工事発注の2年前から大洲市森林組合を通じ国産材にこだわり調達しました。
今回の復元工事は、天守と2つの多聞櫓で延べ面積461㎡、使用した木材は仕上がり寸法で450㎥、内訳は木曽檜(官材)が全体の60%、地元檜が20%、その他材(杉、栗、松、楠)が20%で適材適所で使い分けています。特筆すべきは、市民手作りの復元を進めるため、市内で調達した寄附材や購入材を主に柱に使用し、提供していただいた方々のお気持ちに報いるため、その材をどの柱に使用したかを記録・公開しています。
(大洲城復元の経験と江戸城再建)
江戸城天守閣の再建にも、建築基準法適用を除外されるためには、大洲城天守復元に付されたような3つの事項を条件とされる可能性があるでしょう。
構造上の条件は、建築構造に関する研究・技術も進んでいることから、大きな問題にはならないと思います。
史実に忠実に、という条件も、絵図面が残っているとのことですので、これも大きな問題にはならないのではないでしょうか。
一番心配なのは、防災上の安全性確保ですね。天守は、法上は人の入る博物館と同じ用途ですから、本来であれは耐火構造にしなければならないのですが、史実に忠実な木造復元ではそれが出来ない。この大洲城天守は法適用除外を得ているために、甲冑、鎧、等などの展示物は一切展示できません。誰かいたずらで火をつけても感知して消火剤を噴出させるような装置をつけたり、消火栓、監視カメラ、煙感知装置などの火災拡大防止装置・システムで初期消火でおさえるような工夫をしています。また、入場者も最大140人しか入れない運用となっています。
再建江戸城も見学者数を制限したり、展示物はなしといった運用になるのではないでしょうか。
建築基準法第3条による同法の適用除外が認められるか否かは特定行政庁(大洲城の場合は、愛媛県)の姿勢に大きく左右されます。
復元設計図の最終形も、どの先生がどのような形で関わるかによって、大きく影響されます。法的クリア―も含め、どのような方々が江戸城復元に携わるのか、文化財建造物保存技術協会だけに依存するのか、非常に難しい問題になります。
江戸城再建の木材費はどういった木材を使うかによって大きく変わるでしょう。ご参考までに、大洲城は450㎥の木材を使用して木材費は立米当たり約100万円、岩国の錦帯橋は雨ざらしのところで使うので、節が1個あってもそこから水が入って腐るので良材を使用しているため、411㎥で立米当たり約300万円です。大きな良材は一本で自動車一台買えてしまうくらいの高価なものですから、その選定は大事です。大工さんは腕がいいだけではだめで、木材を見る目もないとだめです。大洲城に関与された大工さんは両方とも兼ね備えた方々で、購入して使えなかった木材は一本だけでした。
(木造による江戸城再建目的の一つに、「地球環境保護」を加えたらいかがか)
私的なことで申し訳ありませんが、昨年、孫が生まれました。その時、この孫やこれから生まれてくる子孫のために、この地球環境を守っていかなければ、と思いました。世界の人口は、私が生まれた昭和26年、1951年では26億人でしたが、2009年で68億人、2050年には92億人になると予測されています。世界の貧しい人たちもアメリカ型の生活を目指して化石燃料をどんどん燃やし続けます。このままでは地球温暖化は進む一方です。
私たちは、大洲城を復元する目的を以下のように市民の皆さんに説明してきました。江戸城再建目的とほぼ同じです。
・大洲市の観光資源をつくる、
・伝統構法を後世に伝える、
・本物のお城に触れることで文化財の大切さを勉強する、
・市民の心の拠り所をつくる、(大洲城を見て大洲に帰ってきたなーと思える)
地球の表面積の海と陸の比率は7:3です。陸地に占める森林面積の割合は30%です。ですから、世界の森林面積は地球の表面積のたった9%しかありません。その森林が毎年北海道の面積分がなくなっているのです。
植物には大気中の二酸化炭素を取り込み,同化・固定できる技術(性質)を持っています。つまり,植物が成長することで大気中の二酸化炭素は植物に埋め込まれることになります。日本は自国の森林で十分に賄えるだけの森林資源があるのですが、使用量の8割は外国から輸入しているのが現状です。このため、日本では、森林の手入が十分にできず、荒廃している森林も目立つようになりました。今、日本の木を伐って、使って、植えておかないと、次世代に森林資源を残せなくなってしまいます。
大洲城復元では450立米、225トンの木材が使用されています。木材重量の半分は二酸化炭素(CO2)と言われていますので、113トンのCO2がお城に固定されたことになります。江戸城が木造で再建されれば、例えば、その使用木材量が4000立米とすれば、1000トンのCO2を固定化できるのです。私は、江戸城再建目的に、「地球環境を守っていくグリーン革命のシンボル」を加えたらよいのでは、と思います。
(おわりに)
復元された大洲城は、市民皆さんの心の拠り所として、また、大洲市のランドマークになるばかりでなく、復元工事は伝統構法を後世に受け継いでいく大変重要な使命があると思っています。大洲城を訪れた方々が、木の温もりや木造建築の素晴らしさを体感し、木造文化を見直していただくことで、低迷荒廃が進む日本の木材事情が改善されることを切に願ってやみません。
井上 徹さま(
私は、天守復元には商工観光課の課長補佐として関与していました。
(復元運動取り組みの経緯)
復元運動は青年会議所、商工会議所青年部の皆さんの働きかけをベースに、市と経済界挙げての運動へと発展しました。復元事業の組織的取り組みの経緯は凡そ以下の通りです:
昭和57年7月、
昭和59年1月、同委員会、市制施行30周年を契機に天守再建を提言
昭和59年5月、
昭和61年4月、同委員会は「大洲城天守閣再建計画」報告書を作成。同報告書には、天守閣の木造は建築基準法との関係で無理で、止むを得ず鉄筋コンクリートとするが、櫓などのその他は木造で再建する、と書かれていた
平成6年6月、
平成6年10月、
平成8年5月、同検討委員会は「大洲城天守は、建築基準法第38条の建設大臣認定により純粋木造で復元が可能」との報告書を作成
平成8年7月、5月の報告書を受け、「大洲城天守閣再建検討委員会」は「「大洲城天守閣復元委員会」と改称し、市制施行50周年(平成16年)での木造復元完成を目指し体制を強化。初代委員長は
平成9年7月、市役所内に係長級9人の職員で構成する「大洲城天守閣復元推進班」を設置
平成10年3月、復元委員会の下部組織に保存管理、建設、募金、募木の4専門委員会を設置
(募金活動)
募金活動を始めた当初はかなりの抵抗がありましたが、以下のようにいろいろな名称を作りながら協力をお願いし、目標額の5億円を集めることができました。
1.基金の設置 : 平成6年6月制定の条例に基づき、平成6年6月から平成16年12月までの間、金額5億28百万円
2.募金活動 : 平成11年3月、基本設計が完了し、工事費が約13億円と算定。同年11月、復元委員会は募金目標額を5億円と設定
①一般世帯募金…1世帯当たり1万円を目標、各行政区の区長が取りまとめ
約72百万円(約2万世帯中12879世帯)
②企業・団体募金…復元委員会、専門委員会の委員らが募金活動
約2億35百万円(354件)
③市職員募金…6年間で1人当たり36千円目標。職員の8割が協力
約 19百万円(5041件)
④瓦記名募金………瓦1枚2000円。自分の名前や夢などを墨書き
約 6百万円(2107件)
⑤その他……… 約1億95百万円
3.高額寄付者の顕彰: 総額で10万円以上の寄付者を北多門櫓内で銅板に刻み顕彰
(PR活動とイベントの実施)
PR活動は市が行い、イベントは市や関係団体、「
1.PR活動
①かわら版の連載…市の広報紙面上に毎月連載(97号が最終号)、
②ポスター作製、③城絵図・パズル、
④工事期間中の見学会(見学者2万人)、
⑤市公式ホームページでの連載、ライブカメラの設置、 ⑥その他
2.イベントの実施
①大洲城模型お披露目式、 ②御杣(みそま)始め式、 ③起工式、 ④木曳き式、
⑤完成記念式典、 ⑥その他
菅野隆次さま(
(地元の大工と復元工事)
私は観光協会会長をやっておりますが、生業は建設業です。大洲城の復元事業は夢のある楽しい事業でした。江戸城再建もぜひ頑張ってほしいと思います。
昭和57年に、
私は、地元の大工も復元建築に是非参加したいと考えておりました。ある日、私の木造建築現場に宮上茂隆先生が来られて私たちの仕事を見られておりましたが、先生が、「地元の大工さんの技量でも築城できるかな」と言われておりましたので、淡い期待を持ちました。しかしながら、市長は、公約した以上失敗は許されないとして、白石城、熊本城、名古屋城などの工事経験と実績のある間組に委託しました。間組は富山県のお抱えの宮大工さんを連れてくるわけです。私は市の助役の助力も得て、間組の四国支店長に手紙で、地元の大工も是非この復元工事に参加させてほしい旨を訴えました。すると、支店長から、地元の大工さんが組合を作ってくれれば、一緒に協力してやりましょう、との回答をいただきました。早速、大洲城復元大工組合を作りました。
平成13年12月、私たちは間組の監督と会いました。この監督のお人柄と建築への熱い思いに触れ、彼となら一緒にやっていいなー、と思いました。監督は、これまでの経験では、地元の大工さんと間組の大工さんとはなかなかうまくいかなかったと言われました。そこで、地元の大工を含む復元事業関係者と間組の人と色々のお城を見て回りました。毎夜の宴会で、お互いが打ち解けるようになり仲良くなりました。お酒は人の心を和らげる、とつくづく思いました。人のうまい組み合わせで大洲城が出来上がりました。人と人がうまくかみ合わなければ、成就できない事業だったと思います。
江戸城、復元成就すること本当に願っております。
河野達郎さま
(株式会社おおず街なか再生館代表取締役専務)
私どもの会社は、
復元事業の寄付活動が始まったころ、私は住んでるところの区長をしておりまして、区長会を通じて1世帯1万円の募金要請がありました。一軒一軒回りましたが、一発でOKしてくれる家はほとんどありませんでした。最初の内は、なんでこんなお金ださなあかんの、とけんもほろろに言われました。なんで城造りのお金をださなあかんの、そもそもなんで城なんか作るの、と結構言われました。罵詈雑言を耐え忍びながら足を運び、説明を重ねるうちに理解してくれる方も増え、結局は9割の方が募金に応じてくれましたが、1割の方は最後まで出されませんでした。この方々に、お城が出来たら行きますか、と聞きましたら、行かん、と言われておりましたが・・・。いずれにせよ、辛いいやな思いもありましたが、今では、いい経験をさせてもらったと思っています。
このような経験もあり、この頃、どこの城にも歴史がある、お城の歴史そのものを地域の方がどれだけ理解しているか、これが地域の人とお城や地域そのものとの距離感を決める最大のポイントではないか、と思うようになりました。どの地域にも歴史があります。大洲の歴史を勉強していきますと、大洲藩は、例えば幕末、倒幕でかなりの働きをし、その為に明治天皇が東京に向かう折には大洲藩主が行列の先駆けをしたことや、坂本龍馬を暗殺した武士がその現場で「こなくそ!」と大洲弁を吐いたとか、結構重要な歴史的局面で登場しているのに、このような事実が今日あまり認識されていないように思います。
私の仕事は、眠った素材を掘り起こして人にPRし、この地に人が来ていただくようにすることです。小冊子などを発行して
倉橋英太郎さま
(当会アドヴァイザー、(株)倉橋英太郎建築設計事務所代表取締役)
皆さんのお話しをお聞きし、お城の復元を現実にやるということの大変さを実感しました。この大洲城を設計された増田先生が江戸城は木造でも構造的にできると言われましたので心強い限りなのですが、江戸城再建の場合、巨大都市である東京都知事がどのように判断されるのか、国家プロジェクトになる場合、時の総理大臣がどのように判断されるのか、このようなことをも念頭に置きながら、お話ししたいと思います。
私はこれまで150件ほどの旅館の再生などを手掛けております。今でも地方には木造の3、4階建てがありますが、昭和25年に作られた現在の建築基準法では木造の3,4階はノーなのです。何故ノーなのか、それは安全でないとされているからです。一般の人が集まる建造物はいわゆる博物館ですから、3階以上の建物は耐火建築物でないといけないとされています。このためにどれほどの日本の木造建築の伝統文化が消え失せているでしょうか。私は、江戸城が木造で再建できれば建築基準法を変えられるのではないかという期待をも持ちながら、江戸城再建運動に携わっております。
大洲の方々は大洲城という素晴らしい建物を作られました、また、瓦屋根と板塀をめぐらした江戸時代風の肱川の堤防も素晴らしいと思います。今後は、今まで以上に、大洲市全体を視野にいれて、町全体が心身ともにうるおいとやすらぎを得られるような景観にする、すなわち、大洲の町の歴史にひたれるように修景されたらいかがか、と思います。そうなれば、先ほど、河野専務が話されていましたが、今まで以上に多くの人
るようになるのではないでしょうか?
江戸城再建もしかりで、江戸城を再建するだけでなく、丸の内などの江戸城周辺をも歴史にひたれる空間に修景する必要があると考えています。それには、再建江戸城は本物でなければなりません。江戸城再建を目指す会の会員へのアンケートでは、約2割の方が、燃えないという理由で鉄筋コンクリートによる再建がいいのではないか、考えているそうです。戦後、大阪城、名古屋城など多くのお城が鉄筋コンクリートで再建されました。その名古屋城が今、壊して木造で再建しようとの動きがあるそうです。本物ならではの質感と空間があって初めて人は感動するのではないでしょうか。江戸末期の写真は結構ありまして、これらを参考に再建江戸城周辺の町並みを修景すればまさに、心身ともにうるおいとやすらぎを得られるような空間を作り出すことが出来ると思います。
イタリアに世界遺産に登録されているフェラーラという町があります。そこは現在も、15世紀から16世紀にかけつくられた9km以上の市壁に囲まれて、初期ルネサンス様式の装飾が施された宮殿・邸宅が多いのです。現在でも多くの人が訪れていますが、何故でしょうか、そこには心身ともにうるおいとやすらぎを得られるような空間があるからだと思います。2007年の統計では、日本を訪れる外国人は830万人ですが、あのイタリアは4370万人です。東京はもとより、全国各地で日本の伝統・文化を活かした本物の空間作りが進めば、日本を訪れる外国の方々はもっと増えると思います。
先ほどの藏本さんのお話をお聞きしまして、江戸城再建を実現するには、城郭研究、並びに城郭建築に関する日本の権威と言われる先生方のご理解とご支援が不可欠との思いをあらたにしました。
実は、私もそのような先生方と何回かお会いし、次のようなご意見をいただいております。
①現在の皇居東御苑に残る天守閣の台座石垣が史跡であれば、文化庁の許可なくその台座をいじれないし、その上に天守閣も再建できない。再建されるものは本物でなければならず、鉄筋コンクリートは問題外。史実に忠実に再建されなければならない
②建築基準法との関係では、人が中に入れるようにするためには、同法第3条によって法の適用除外を受けなければならないが、このハードルは高いものの絶対にクリアできないものではないのではないか
③木造再建天守閣の構造上の強度としては、建築物の高さが大洲城より倍となるが(江戸城天守閣:44.8m、大洲城天守:19.16m)、柱が通っており、構造学的、力学的にはクリアできるのではないか
江戸城再建を実現するために解決すべき課題は何か、ということを具体的に研究されている方は、今のところ日本に誰もいません。私は今、江戸城再建を目指す会からその研究を委嘱されているのですが、私自身が下積みの研究をして、ある程度見通しが立った段階で、この道の日本の権威者の方々に私たちの運動に加わっていただき、
①木造でも強度上再建できる
②江戸城天守閣の写真は残っていず、絵図面しかないが、歴史考証から当時の天守閣を復元できる
③必要な防災対策の措置により、建物の安全性は担保できる
等の事項につき、専門家としてのお墨付きをいただき、建築基準法や文化庁との関係から生ずる問題に対応していかないといけない、従前からもこのように感じていましたが、今回のセミナーで藏本さんのお話をお聞きし、改めてその意を強くした次第です。
河野さんが先ほど、「どこの城にも歴史がある、お城の歴史そのものを地域の方がどれだけ理解しているか、これが地域の人とお城や地域そのものとの距離感を決める最大のポイントではないか」と言われましたが、正にその通りで、江戸市民(東京都民)はほとんどの方が皇居東御苑の中に天守閣の台座が残っている事を知らない。東御苑が一般に開放されていることもほとんど知られていない。江戸城再建は、多くの方々が「再建してほしい」と願わないと実現困難です。江戸城の歴史、天守閣再建の意義などを広く江戸市民に理解してもらうことが非常に大切なことと思っています。このためにも、天守閣再建までの一種の時間つなぎとして、江戸城天守閣周辺の櫓や城門、等を再建するなどして江戸時代の空間を醸し出す修景を行うことも意味あることではないか、と思っています。
<講演終了後の質疑応答>
質問:先ほど、募金に1割の世帯が反対されたとのことですが、その理由は?
答え(藏本氏):大洲市は豊かな町では必ずしもありませんので、古い図書館の改修、学校の耐震化などが先だろう、市が取り組むべき順序が違っているんじゃないか、といったようなことのように思います。建築基準法38条が削除されて難儀しましたが、その結果、本物復元にこだわったわけで、ある意味運が良かったと思っています。お蔭さまで市民の方の理解も進みました。
運が良かったという意味では、檜は国有林の官材を使うことが出来ましたが、いまではなかなか出にくいようで、今やろうとすると費用はもっと高くなるだろう、と思います。三重県の業者の話では、日本全国で直径1mをこえる木は1000本を切っているとのことで、江戸城再建を国産材にこだわると難しいのでは、と心配しています。
質問:建設された方はどのような方ですか
答え(藏本氏):大工さんは、間組が富山県から連れて来られた宮大工さん5人と地元の大工さん9人の計14名です。普通の住宅ですと1坪あたり4人から5人役の大工さんで済みますが、大洲城では坪数140坪で、1坪当たり55人役でした。左官、とび職を加えると、全部で14000人役、1坪当たり100人役でした。
質問:世論喚起が重要と考えていますが、いつ頃、何がきっかけで市民運動が盛り上がったのですか
答え(藏本氏):建物工事が始まらないと市民の皆さんの関心がわかないですね。何も見えない中で、「さあ、寄付をしてください」と言ってもなかなか盛り上がらないものです。着工前から木の寄付をお願いしたり、本物にこだわったので市民の方々や議員の方々の賛同を得ました。市会議員の中には順序が違うだろうとも言われましたが・・・。この事業を行政が主導するのでなく市民、事業者、そして自治体の三位一体で頑張っていこうとの姿勢で、色々な行事を行い、マスコミを呼び込んで、事業が始まっているんだということを広く知ってもらう努力をいたしました。
質問:城を作る目的の一つである観光のためだったらコンクリートの方がいいのでは?
木造復元と地球環境保護との関係も今一分からないのですが・・・。先程の蔵本さんの話の中で、木曽檜を大量に調達したと言われたが、資源が枯渇していく中、このような大きな木を大量に伐採することは良いのでしょうか
答え(藏本氏):大阪城や名古屋城に行って皆さん感動されるのでしょうか?人間は森林の中で長いこと生活していましたので、ある本では、部屋面積の約三割に木材を使うと非常にリラックスする、5割使うとワクワクする、そういう気持ちになる、と書いてあります。鉄筋コンクリートですと、展示物も置けますが、それで見学者は感動するでしょうか?
それに鉄筋コンクリートですと、よほどのことをしない限り、その寿命は60年から70年なんです。木は、切ってから100年、200年と強度を増し、200年くらいにピークに達し、それからゆっくりと強度が落ちていきます。このような木はもう老木で成長が遅く、二酸化炭素の固定には貢献していないし、江戸城のために使われて数百年と二酸化炭素を固定していく方が、結果的には地球環境のためになるのではないでしょうか。古木を伐採した後は、当然苗を植え若い森を造っていけば、二酸化炭素の固定が大いに進むと思います。
今回のシルバーウィークを利用して伊勢神宮へお参りして来ました。 伊勢神宮では、平成25年度の式年遷宮に向け、木材の調達・乾燥が進められております。式年遷宮では全体で65棟の建物を全て新しく造り替えられますが、使用する木材は木曽檜を原木で13,000本(約10,000㎥)も使用されます。その木曽檜を裏木曽の国有林から大量に伐採する代わり、
江戸城は、20年毎に解体、リサイクルされる遷宮に使われる木材量の4割で済む訳ですし、ましてや、建てれば数百年と二酸化炭素を1,000tも固定してくれる訳で、その意義は大変大きいと思います。
鉄筋コンクリートで作って60,70年後にまた取り壊す、これが地球環境保護にいいんでしょうか?鉄筋コンクリートを素材として作るには化石燃料などのエネルギーを使います。木材を使い、森林を育てればCO2は固定化されます。
循環型社会が見直されている現在、観光、観光、とだけ唱えても皆さんなかなか納得されないでしょう。木造による江戸城再建は地球環境保全にも貢献する、と言えば賛同される方も多くなるのではないでしょうか。
江戸城再建を、地球環境を守るグリーン革命のシンボルとしましょう。
質問:江戸城天守はここ大洲城天守の9倍も大きく、また、見学者の数も比べ物にならないほど大勢の方が来られると思いますが、木造で強度的には大丈夫なのですか?
答え(倉橋氏):木造の場合、柱だけでなく、壁が厚く、この二つで大きい強度を得ることが出来ます。また、木は柔軟性があってしなりますが、鉄筋の場合、ぷつんと切れてしまいます。建築構造学の権威であられる方が、強度上も大丈夫、と言われています。
質問:今回、地元の方のお話をお聞きして感じたのですが、天守復元に熱意を持つ藏本さんを始めとする地元の方々と、それを強力にサポートしてくれる学者及び設計してくれる建築家の三者が一体となって初めて、建築基準法の問題をクリアできたと理解してよろしいでしょうか。
答え(藏本氏):基本設計をしていただいたのが、城郭建築の権威であられる故宮上先生でしたので、復元設計の信頼性と言う面では評価されたと思います。ですから、基準法適用除外の条件の一つであった史実に忠実な復元設計であることについて、公的な機関での証明も得られたと思っております。他の先生でしたらどうなっていたか分かりません。
第2日目 於 「ふるさとの宿」(河辺町)
作家の村上恒夫先生は龍馬脱藩の道を発見した経緯を次のように語られました。
私
この間に集めた資料、写真は膨大なものになりました。3人で、これらを駆使して如何に世間に龍馬脱藩の道を知らせるか、話しあいました。本を書くのは大変なことなので、これらの資料を学者に送って本を書いてもらおうか、とも話しました。しかしながら、龍馬の道をじかに歩き、龍馬が脱藩した時に龍馬、惣之丞、那須俊平の三人が脱藩後の伊予路での第1夜を過したあの泉ケ峠を発見した時の足が震えるような感動を知る者が発表すべきだ、ということで意見が一致しました。では、誰が書くのか、結局、一番若いお前が書け、ということになってしまいました。当初、私は、三つのことから書けない、と言っていました。一つはお金がないことです。本を書くには、参考にするための本代100万円、現地踏査のための旅行費用100万円、その他100万円、計300万円が必要と思われるがそんなお金はありませんでした。二つ目は、時間がないということです。私は当時、社会教育担当をしておりまして、土曜も日曜もない生活をしておりました。三つ目は、私には本を書く力なんかない、ということです。私は高校しか出ておりません。田舎の高卒で本が書けるか? 隣の
私は、泉ケ峠に2日間居座りました。その時、
「130数年前、坂本龍馬は今自分が立っているここを通って脱藩し、5年の間に日本の封建制をひっくり返した。龍馬にそれが出来た。たった400枚の原稿位お前に書けないわけがない、やってみい、おまえ龍馬になれ」という気になりました。それから私は変わりました。教育委員会では、今までと異なり、何でもやりますというようになりました。猛勉強もしました。お金は親類が貸してくれました。時間も出来ました。簡単なんです、テレビ見るのをやめましたら時間はたっぷりありました。2年間かけて400枚の原稿を書きました。原稿を出版社に送りました。2か月後に、出版社から出版するから写真送れとの通知が来ました。10年くらいかかると思っていたので驚きましたし、なかなか信じられませんでした。
龍馬脱藩の道が発見されたことで私の人生もこの河辺町も変わりました。河辺町では、脱藩の道を検証しよう、ということで草刈りをしましたら、旧街道が出てくるんですね。そこで、「わらじで歩こう坂本龍馬脱藩の道」と言うイベントを企画しましたら、人口1000人の河辺町に全国から400人も集ってしまい、駐車場はない、泊まる場所はない、ということで町はパニックになりました。今は、宣伝は控え目にして、300人限定で行っています。
本日は東京からわざわざお越しいただき、大変うれしく思っています。なにはともあれ、私の話より、龍馬脱藩の道を歩く方がはるかに感動があります。さぁ、これから出かけましょう。
<ご講演後の質疑応答>
質問:たいへん素晴らしいお話しありがとうございました。先生何歳の時に龍馬研究を始められたのですか
お答え:53歳の時でした。その時までは、この種の話に興味は全くなかったんです。龍馬研究に草書体が若干読めたのが役に立ったのかな、と思います


