H21.10.17 道灌公を追慕し、江戸城と今日の東京を重ね合わせた一日でした(報告)

NPO法人 江戸城再建を目指す会

第3回太田道灌公追慕の集いと「江戸城を歩く」の著者講演 (報告)

2009年10月17日(土)、会員と一般の方の計32名が皇居東御苑の平川橋のそばにあります「太田道灌公追慕の碑」前に集まりました。

昨年の集いでは、参加者から、来年は追慕と歴史勉強をあわせた集いにできれば、との意見も寄せられたため、今回は、太田道灌公追慕の碑前で追慕するだけでなく、徒歩10分ほどの「千代田印刷会館」会議室で、私たちの会の会員で「江戸城を歩く」の著者でもある黒田涼氏から講演「江戸城が作った現代日本の礎」をお伺いすることなりました。
当日は、追慕の碑前で太田会長と小竹理事長の挨拶の後、参加者一同、道灌公に黙祷を捧げました。その後、千代田印刷会館に移動し黒田氏のお話しを伺いました。
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黒田氏は、江戸城中心とする江戸の町づくりが正に今日の東京、ひいては今日の日本の基礎を作っていることを具体的な事例を挙げながら紹介されました。そして、かかる観点からも江戸城再建の今日的意義あることを強調されて講話を締めくくり、参加者から大きな拍手が沸き起こりました。
講演の後の質疑応答の中で、著書「江戸城を歩く」の中で紹介されている江戸城跡巡り12コースを黒田氏と一緒に歩きたい、との声がありました。来年、このような企画が出来るかもしれません。御期待下さい。
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黒田氏の講演概要は以下の通りです。
 
よく、こんなところに江戸城の跡があるとは知らなかった、と言われる。私も初めはそうだった。現に今ある江戸城の跡を探し訪ねて行くうちに、江戸城への関心が深まっていった。そして、其の跡をたどってみると東京という都市構造の発展が江戸城に規定されている、ということが分かってきた。今を生きている人は忘れがちだが、今日の東京は江戸時代の江戸と連続している。江戸城築城を核とする江戸の町づくりを知ってもらいたいと思った。実際に江戸城跡を歩いて訪ねてほしいと思った。今、残っている江戸城の跡を辿って行ける、その為のガイドブックとして、「江戸城を歩く」を書いた。
江戸時代の都市計画は実に良くできていて、今日の東京は、これをベースに築き上げられている。良くできていた江戸時代の都市計画のお蔭で今の東京、ひいては日本が繁栄していると、実感している。
IMG_3413.jpg現在の東京の土地利用の状況・都市計画が、江戸時代のものをベースにしていることは、現在と明治4年に測量した地図を比較してみると一目瞭然である。丸の内地域には譜代大名が、霞が関地域には外様の大大名が、麹町・お茶の水地域には旗本、御家人が、そして、日本橋、京橋、銀座には町人が住んでいた。このように、幕府の土地利用では、江戸城を中心に、大名屋敷、旗本屋敷、町人居住地と、はっきり分かれていた。
これを今の東京との関係でみると、丸の内地域の譜代大名屋敷は明治政府に接収された後、三菱グループに払い下げられて大企業オフィス街となっている。霞が関地域の外様大名屋敷は政府が召し上げ、多くがそのまま官庁街となっている。麹町・お茶の水地域の旗本・御家人屋敷には、もともと丸の内や霞が関のように広大な土地がなく、中程度の広さの屋敷で、今の麹町には高級マンションが多く建っている。日本橋、京橋、銀座の町人地域はいまでも日本一の商業地域となっている。
江戸の町は江戸城を中心に海を埋め立てながら拡大したが、日本橋方面から今の江東区へは平地として拡大し、人口の密集する下町を形成した。江戸の発展と共に商業地は東に伸びていった。
今の山の手は当時も山あり谷ありで、高級住宅地として発展してきた。
ところで、今日の都心の鉄道・道路網の骨格は、江戸城の堀の存在を抜きには考えられない。
総武線は、四谷、水道橋、秋葉原と、正に外堀をそのまま走っている。水道橋、後楽園、飯田橋あたりの中央線、総武線は高架になっているが、その土塁は江戸城の外堀の土塁をそのまま使っている。今は明治時代に作られた壁で覆われているが・・・。京浜東北線、東北新幹線も東京駅から南は外堀に沿って作られている。
これらの鉄道網の骨格は明治時代にできたが、当時でも東京にはたくさんの人が住んでいた。人がたくさん住んでいるところに鉄道を通すことは大変なことで、ヨーロッパでも都市の中心部から少し離れたところに中央駅がある。東京の場合、人をどかすことなく線路をひけたのは、江戸城のお堀のお蔭である。
外堀の利用のもう一つの例として首都高速がある。戦後、大量のがれきの処理に困った東京都だったが当時の安井誠一郎知事は「安く早く処理しろ」との命令を出し、苦悩した担当者は、焼け野原を整備して100メートル幅道路を都心に通すような理想の都市づくりをあきらめ、仕方 なしにお堀を埋めてがれきの処理を実行した。その後、東京オリンピックに備え短期間で高速道路を通す必要があった東京では、このがれきを埋めた上にビルを建て、さらにその屋上に高速道路を通したり(いまの銀座ナイン)、堀の上を覆って首都高を作ることになった。
日本橋川の上は首都高速が通っているが、あれを通さなければ都心環状線はできなかった。世界中の都市で、都市の中心を高架で高速道路が通っているのは日本ぐらいだろう。ソウルもやっていたが反省して止め、川に戻した。ロンドンもパリ、ニューヨークも都市の中心を高速道路は通っていない。地下で通すか環状線にしている。
あの当時はオリンピックに間に合わせるため仕方がなかったのであろうが、日本橋川をみると橋脚が見るも無残に外堀石垣を突き抜けている。
日本橋、京橋、銀座は、家康時代に海または低湿地を埋めたてて造成された。家康は、商業の発展を図るため、大名地と比べてもかなり大きな面積を町人地域に割り当てている。城下町の道は、普通、敵が攻めにくいように曲がりくねって作られているが、この商業地は碁盤の目のように区画されている。銀座中央通りの道幅は、舗道の縁から縁まで家康が決めた8間約16メートールのままである。みゆき通りなどの裏通りや町割りも江戸時代のままである。広い街地を作ったおかげで今のゆったりとした銀座がある。
江戸城構築当初は、建物が高密度に作られていたが、1657年の明暦の大火の反省で、火が燃え移らないように、火よけ地として内堀、外堀の周辺、両国橋、万世橋などの袂に土地を広く空けていた。その跡をつないで内堀通り、外堀通り、つまり環状線の1号線、2号線が作られ、その後、環八にいたる東京の環状線が形成されていった。これらがなければ、東京の道路事情は不便なものとなっていたであろう。江戸時代の五街道も今の国道の元となっている。
1602年頃は有楽町あたりまでは海で、江戸城の東北方面には平川が流れ、今の神田の地域には神田山があった。平川はしばしば氾濫し、この川の水を隅田川に流すために神田川を作った。この際に出た土などでもって、海を埋め立て、今日の東京の基盤を作った。
次に、利根川治水工事について触れる。これは江戸城構築と町づくりに匹敵する大工事で、家康が江戸に入ってから開始され、完成は明治に入ってからであった。もともとは江戸湾に流れていた利根川を銚子方面に流れるようにする工事である。
当時の利根川、荒川、渡良瀬川は全て今の江東区を通って東京湾に流れ込んでいた。このため、江東区あたりは川の流れがしょっちゅう変わり、洪水が頻繁に発生し人の住めるところではなかった。一方、人口が増大続ける江戸の食糧を確保するために、江戸周辺に田んぼを開拓することも必要とされていた。また、この工事以前は、東北からの船は房総半島を回って江戸湾に入ってきていた。黒潮は茨城・福島県のあたりで北からの海流とぶつかっているが、東北からの船は黒潮に逆らってくるため難破することが多かった。これを何とかしようとして、房総半島を回ることなく、銚子から川を遡って今の野田あたりで江戸川を下って江戸に入るという安全な船路を開発する必要もあった。
これらの問題、課題を解決するために大治水工事が行われ、結果として、埼玉県あたりに田んぼも開拓され、下流部の江東区にも人が住めるようになってきた。航路も一段と整備された。IMG_3421.jpg
江戸を作ったことと今日の東京と日本の発展との関係を考えてみる。
仮の話として、もし、豊臣政権が続けば、日本の首都は大阪になっていたろう。日本の歴史をみれば、日本は弥生時代以降 西から東に発展してきた。江戸時代当初は、江戸の地域は文化的には西に相当遅れていた。例えば、東日本には石垣を作る技術がなく、石垣のある城などなかった。江戸城の石垣もそのほとんどは西の大名が作った。文化の中心も京都・大阪であった。豊臣政権が続いた場合、今日の東日本の発展はあったであろうか?東日本は日本の中で大きな面積を占めている。関東平野は日本一広い。幕府が江戸にあったからこの平野を開拓できたので、関西に中心地があったら今のように開拓できたかは疑問である。
家康が江戸に幕府を開いて以来、江戸の町を作るために全国から何十万人もの人が集められた。武家屋敷が作られて武士が住み、都市経済活動の担い手としての町人や職人も住む。このようにして経済の中心もだんだん江戸に移る。増大する人口の食糧を確保するため、関東地区で野菜やお米を作るようになる。東北からも物資が搬入される。このようにして東北地方も発展する。
江戸幕府は関西の文化人や商人をも積極的に東京に招請した。この結果、歌舞伎、落語、能なども今や、東京が中心となっている。
江戸末期の人口は百万人を超え、当時の世界最大級の都市へと発展した。
江戸の町づくりと今問題となっているヒートアイランド、地球温暖化との関係を考えてみる。
江戸時代は、堀や川が縦横に張り巡らされ、冷却効果があった。ところが、戦後、これらのお堀や川を埋めたため、局地的に東京を熱くしてしまった。景観だけでなく、東京を住みよい街にするために、ソウルが水辺を復活させたように東京の堀や川を復活させることは、都知事にお願いすればいいわけで、東京都民にでもできる。地球温暖化は一地域だけでは対応できないが、東京のヒートアイランド問題は都民にとって解決可能なものではないか。
明治政府の方針は幕府のものは消せ、というものであったが、今は流れが変わってきている。明治以降、江戸の良いプランに胡坐をかいていた部分がある。この点を反省し、江戸城の天守閣を再建するだけでなく、江戸の町づくりの良い部分を今日に活かせば、東京をもっともっと暮らしやすい街に出来るのではないか。
< div style="text-indent: 17.95pt; margin: 0mm 0mm 0pt">30年くらい前、飯田橋駅前の飯田堀が埋められようとしたが、地域住民の反対運動がおこり、埋め立てはされたものの、其の跡に外堀の面影を残す人口のせせらぎが作られた。最近では日本橋川の上の首都高を地下化する運動、千代田区、新宿区、中央区が中心になって外堀を管理保存しようという動きがある。
歴史を大事にしていこうという機運が出てきている。今持っている歴史的資産を活用しよう。日本には2000年の歴史があり、江戸という町には400年の歴史がある。アメリカ人にはまねのできないことで、西海岸の大都市が繁栄しているといっても高々200年の歴史にすぎない。
もし天守閣が出来れば、世界中から観光客が来て感銘を受けるのではないか。天守閣は単に外形が美しいだけでなく、それぞれの町に住む人たちのアイデンティティになる。
大阪城は大阪の人が誇りに思っている。あれが建てられたのは昭和の大恐慌の最中で、皆がお金に困っているにもかかわらず全部市民の寄付で作られた。大阪城は大阪人の気概を感じるお城である。
100年に一度の大不況と言われているが、江戸城は東京に住んでいる人だけでなく、ある意味で日本のシンボルでもあるので、みな力を合わせて、元気をだそうや、ということで江戸城を再建することは大いに意味あることと思う。私も会員の一員としてこの運動の発展にお役に立ちたい。
 
以上(文、写真:理事 金成秀幸)

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